眠れない男

男は迷っていた。今にも襲い掛かってきそうな大きな眠気から逃げるために目を閉じないようにするのか、はたまた身体を動かして誤魔化すのかを。そうでもしなければ、この現実を受けいれることができなかったからだ。

事件が起きたのは男が家に帰ってきたことから始まる。
男は極普通のサラリーマンをしている。毎日毎日、下げたくもない頭を下げ、会社の為に我が身を削って汗をかいている真面目な人物である。しかし、この男には少し妙な点がある。それは、夜になると記憶がなくなるのだ。
一般的に言えば夢遊病。しかし、男の場合は眠ってはいない。起きている、その間にしていることだけ忘れてしまう。意識はしっかりとしているのにだ。
今日も仕事から帰るとまず風呂に入る。男は一人暮らしだ。ユニットバスの不便さに嫌気が差し、そろそろ引越しも考えている。男の部屋の台所は、まるで蠅やゴキブリの巣をわざわざ作ってあげているかのように汚い。そこには一匹の蛙の置物がぽつんと置いてある。
何故か、その蛙の置物だけは毎日必ず洗い、清潔を保っている。もちろん、食器類はお構いなしだ。
鼻歌まじりとはこのことを言うのだろう。男は下手くそな鼻歌をシャワーの音にまぎれさせている。温度調節が壊れているシャワーはいささか熱い。が、それがまた疲れた身体には心地良いものになる。
バスタブの栓はどこかに無くしてしまったらしく、男は自分の足を押し付けて湯船に湯を張る。身体半分まで浸かることができたら男は立ち上がり水を抜く。
タオルで身体を拭きながら歯を磨き、パンツ一丁で台所へ向かう。それが男の行動である。
台所では溜まりに溜まった食器の中から選りすぐりの一枚の皿を選び、使い古したスポンジに洗剤をつけて軽く洗う。自炊はお手の物で食事はいつも風呂上りに作ることに決まっているのだ。
男は居間に行き、肌触りの悪い絨毯の上にある小さな一人用のテーブルに一皿のおかずとご飯を置き、誰もいない窓に向かって「いただきます」と頭を下げた。
右側にはタンスがあり、その上にテレビが乗っている。
男は食事が終わるとテレビを付け、この部屋には不釣合いな大きなソファーに腰掛けた。
しばらくすると、夜は更け、日付が変わる時刻を過ぎた頃。
「さてと」の声と同時にテレビを消し、ソファーに横たわった。
男の部屋にはベッドがない。大きなソファーが彼のベッド代わりなのだろうか?
手探りで床を漁ると一部の雑誌を取り上げた。男はそれをパラパラとめくった。
星占いを見る。今月の運勢は「劇的に変化がある」だそうだ。男は「何もないさ」と言う。
ここで、男の記憶は途切れた。
気がつくと、ソファーに腰掛けて雑誌を鋏で切り刻んでいるような痕跡を目の当たりにした。
「なんだこれ」男は言った。床一面に紙の切れ端が散乱している。
時刻は午前六時を示している。
男は何事もなかったようにスーツを着て会社へと向かっていった。
「ただいま」と誰もいない空間に向けて男は力なさ気に言った。
返事はない。これが毎日の生活習慣である。男はためらわず風呂に入った。
蛙の置物が、風呂上りの男の目に止まる。なぜだかその目を見ていると、きれいにせずにはいられなくなるのだ。男は自炊の前に必ず蛙の置物を水道で洗った。
食事が終わり、テレビをつける。何事もない平凡な毎日。我が身に起こることなどたかが知れている。男は自分という人間の限界を悟っているように考え事をしている。付けているだけのテレビの音は、男の神経を逆撫でした。
男はテレビを消す。ソファーに横たわり、手探りで一部の雑誌を掴んだ。
星占いを見る。
男は星占いを見ると雑誌を床に置き、今夜は眠ろうと目を閉じた。
男の目の前には闇が広がっている。実際は瞼の裏を見ているだけだが、そこには確かに黒い世界が広がっていた。
こう広い世界を見たことに、男は感動すら覚えていたようだ。黒がこんなに綺麗な色だったことを男はこの時、初めて気がついた。
物事には全て原因がある。物が存在しているのは、色があるからなのだろう。透明という言葉で着飾ったガラスや宝石も、透明という色に染まっている。男は自分が何色なのかを確かめたいと思った。
男は目を開けてみた。
すると、その天井は見慣れた我が家とは違い、白く、白く、気持ち悪い天井だった。
男は身体を起こそうとする。しかし、なかなか起き上がることができない。すると、一人の白い女性が近づいてきた。
「気がつきましたか?」
男はその姿を見て、自分が病院にいることを理解した。
「えっと、僕は何でここにいるんでしょうかね?」
看護士らしきその女性は困った顔をしてそそくさと出て行ってしまった。
その態度に異変を感じながらも、男は会社に連絡しなくてはいけないと思い電話を探しに行った。
「はい、はい、そういうわけでしばらく病欠します。はい。」
男は電話を切ると、自分の病室に迷うことなく着き、自分のベッドに潜り込んだ。
見たところ、点滴をしているわけでもなく、至って本人は健康のつもりだが、会社を休めたからまあいいだろうと楽観視しているようであった。
病院の消灯は早い。
男は寝付けずにいた。毎日の生活リズムが崩れ、風呂に入ることも自炊することも禁じられてしまっている。あの蛙の置物を洗うこともできないこの状況にうんざりしていた。
たまらずナースコールを押した。
男は何故か個室に入っている。大きな病気でも金持ちでもないのに、妙なことではあるが、病院の都合だろうと勝手な解釈をしていた。
「どうしました?」目を開けたときにいた看護士が来る。
男は冗談交じりに眠れないから本を読んでくれとお願いをした。
あきれた顔をした看護士を見て、少し話をしようと持ちかけてみたがあっさり断られた。
男は仕方なく、ベッドに寝転がった。
手探りで雑誌を探す。いつもの習慣でやってしまったことだが、何かに手が触れたのでそれを取ってみた。
雑誌だ。男は不思議に思う反面、誰かが忘れていったものであろうとあまり疑いもせず雑誌に目を通した。
星占いを見る。そこには「この人と関わってアンラッキーな人は看護士」と変な文章が載っていた。大方こういう雑誌は簡単に作っているものが多い。変な雑誌だなと思いつつ元の場所に戻し、星明りに気づき窓を見上げた。
まるで降ってきそうな星空だ。ロマンチストな思いに駆られ、窓から視線を逸らした。
目の前には小さなテーブルがある。そこには男が作った一皿のおかずとご飯が置かれていた。
「いただきます」と男は誰もいない窓に向かって言った。
食事が終わるとテレビをつけ、見ているようで見ていない状態が続く。
「さてと」男は独り言を言うと、ソファーに横になった。手探りで雑誌を探す。しかし、いつもの場所に雑誌はなかった。
たまらず身を乗り出して床を見た。そこには雑誌の切れ端のようなものが一面に散らばっており、絨毯の色が見えないほどだった。
「なんだこれは」男はそう言いながら紙くずの上に足を置いた。
ぐにゅ
まるで生き物でも踏んだような感触。
たまらず男はソファーに飛び乗った。
「だ、誰か寝てる」
男は紙くずを少しずつ、少しずつ取り除いていった。
そこには間違いなく人間の腕らしきものがある。どうやら女性のようだ。
男は酔っ払って家に女を連れ込んだのだろうと自分の身の行いを整理し始めた。
が、結局思い出すことができない。
仕方がないのでその女性を起こすことにした。
「おい、おい、どうせ寝るのならソファーの方がいいぞ」
しかし、返事はない。
身体を揺すっても起きる気配はない。
男はあきらめてソファーに横になった。
自分の部屋に自分以外の人間が存在していることは多分に不愉快なことである。まして男には恋人はいなかった。
男は仕方なく眠ろうと目を閉じた。
やはり、気になって女を起こそうと目を開けた。
朝。
男は時計の針を見る。時刻は午前六時だ。
男はいつもどおりにスーツを着て。会社に出かけた。
会社から帰ると風呂に入り、蛙の置物を洗い夕飯を作る。食事が終わるとソファーに座り、テレビをつけてそちらを向いている。
何気なく見ているニュース番組が男の興味を引いた。
事件は男の近所で死体が発見されたということである。なんという世の中だろうと男はビールを片手に、ふかふかの絨毯の上に足を降ろした。
その直後、被害者の顔がテレビ画面いっぱいに映し出された。
「被害者は東京都の西川さん32歳。都内の病院に看護士として勤務していました。」
その顔は、絶対に見覚えのある顔だった。
慌てて音量を上げる。この人は自分が入院しているときに世話になった人だ。
途端に男は疑問に刈られた。男は入院した記憶など持ち合わせていないのだ。いや、しかしこの人は絶対に会ったことがある。
考え込むうちにテレビが男にこう告げた。
「なお、発見されたときの様子は死体に雑誌の切れ端のようなものがかかっており、故意に隠そうとされていた模様です。」
その言葉に男はいつも床に落ちている雑誌を探してみた。
もちろん雑誌はない。それどころか、男は肌触りの悪い絨毯がふかふかの絨毯に変わっていることに気がついた。
「おい、何だよこれ・・・」
男は結論を拒否するも、やはりそうなのだろうと自分に言い聞かせた。
そういえば最近は眠った記憶がないことを。
真実は、蛙の置物だけが知っているのである。
男は迷っていた。今にも襲い掛かってきそうな大きな眠気から逃げるために目を閉じないようにするのか、はたまた身体を動かして誤魔化すのかを。そうでもしなければ、またやってしまうかもしれない現実を受けいれることができなかったからだ。