第二章 向かい側の女
濡れた服の重みと程よい徒歩の疲れに強い眠気を感じながら私は電車に乗り込んだ。
電車の揺れは人に安らぎを与える。寝不足の人は目的地まで最大限、睡眠を取り仕事に向かう。仕事ではない人も、次の何かの為にここで仮眠を取る。言わば共同移動仮眠施設だ。窓の外には多摩川が、多い時には三度四度と目にするが、いつ見ても不快に思わない。
川は流れていく。止まったらそれは川ではない。川は時間に似ているのかもしれない。だからいつ見ても、いつまで見ていても不快でないのだろう。
私はどうも話を哲学的に話してしまう傾向があるらしい、誰も聞いていない事をよくベラベラと喋る。誰も聞いていなくても、自分が聞いているのだから別に誰に断る必要もないか…。
何気なく窓越しの大きな川を眺めていたら向かいの女性と目が合った。
濡れた金色の髪。赤いアイシャドー。ゼブラ柄のカーディガンを羽織り黒のTシャツ。胸にはよくわからない英文が羅列されている。少し紫波のある黒のスカート。その中から飛び出す黒いストッキングを履いた足は銀のパンプスに包まれていた。ああ、この子も私と同じだ。
雨に濡れた髪をかき揚げることもせず、袖に染み込んだ水滴を搾る事もせず、ただただ雨に身を任せ、自身を洗い流していたに違いない。そして行き交う人々の哀れみの目に静かに反論していたのだろう。
出会った視線を反らす事ができず、彼女が下車するまでの十秒間だけ、まるで蛙が蛇に睨まれたかの様に真の沈黙が訪れた。
彼女が下車してからも私は彼女が居た席を見つめていた。空席を見つけ我先にと座る若いスーツ姿の男性。その男性が去り、しばらく空席が続き今度は若いギャルが携帯電話をいじりながらつまらなそうに座る。何人もの人が立ち代わり座ったが、私が下車するまで彼女の残像が消える事はなかった。
プラットフォームに降り立ち、漸く本当に家路に着く。
あの子の名前は何だろう。家はどこだろう。
当たり障りのない考えが頭に過ぎり歩いている事さえ忘れていた私に気が付いた。もう鎌倉橋である。
私が最初と最後に渡る神田川に架かる橋だ。
気のせいか雨は弱まっている。いや、降り始めの雲まで戻ったのだろう。まったく、電車が天気を遡るなんて馬鹿げた話だ。
気が付けば、私は彼女の顔も服も、あの濡れた髪も、ましてや彼女に対する探究心さえも全て忘れていたのであった。
